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[報道] 終わりのない警戒区域ペットレスキュー

原発20キロ圏内で活動する女だけのペットレスキュー隊

 車を止め、トランクに積んだキャットフードをおろし、両手いっぱいに抱える。敷地内に入り、家々の所定の場所に置く。縁側の下、シャッターの中、塀と塀の間。次々とスピーディーに置かれていくキャットフードはどれも袋のまま。「ここら辺の猫は自分で開けて食べる」のだという。家屋には人の気配はない。窓さえ割られている家もある。

 福島第一原発20キロ圏内――。その中でも最も厳しく立ち入りが規制されている「警戒区域」と呼ばれる場所で、震災後から継続してペットレスキューを行っている女性がいる。それが中山ありこさんだ。震災以降、ほぼすべての週末を福島でのペットレスキューに費やしている。

 今なお物理的な立ち入り制限の措置があり、自由な立ち入りを許可されていない「警戒区域」。「立ち入りが出来なければ著しく公益を損なうことが見込まれる者」と「警戒区域内に居住する者であって、当面の生活上の理由により一時立ち入りを希望する者(ただし一世帯1名)」にしか一時立ち入りが許可されていない場所だ。

 現在、警戒区域を含む避難指示区域からの避難者数は11万人以上(復興庁発表資料より)。「ほかの県と違い、家が無傷なのに戻れない。そういう人がたくさんいる。許可がないと自宅に戻れないって、まともな状況じゃないですよ」。そのような人たちから依頼を受けて、中山さんは、警戒区域に絞って活動を続けている。

4月に入った福島は「動物しかいない町」だった

 平日はパソコン教室の先生をしながら、ボランティアで猫の保護活動を行っている中山さん。2011年3月11日、その日もいつもと同じようにパソコン教室で授業をしていた。福井で感じた震度4の大きな揺れが、東北では大津波となって人々を飲み込んでいることを知るまでに時間はかからなかった。テレビから流れる恐ろしい光景を見て、毎日ただただテレビの前で涙を流していた。

 刻々と変わる状況の中で、震災から4日後には後方支援を開始。知り合いのボランティア団体が東北に入ってレスキューを始めていることを知り、保護されたペットの一時預かりを申し出た。そして震災から1週間後。

「もう我慢できなくなっちゃったんです」。

 飼い主と離ればなれになってしまったペットを保護したい、助けを呼べないペットに餌をあげたい。そんな思いから、東北道の開通を見計らい、車で被災地へ入ることに決めた。4月中旬の出発までに、ペットの受け入れ先を全国で募集。30件程度の枠を確保して、福島に向かった。

「最初は宮城を考えていましたが、2ちゃんねるで見た1つの投稿がきっかけで福島行きを決意したんです。やきそばさん、と名乗る男性が浪江町の(ショッピングセンター)サンプラザ付近にたくさんの残された犬がいる、えさをあげてほしい、と。その書き込みを見て、福島行きを決めました」。

 浪江町への道のりの険しさは想像を遙かに超えていた。

「とにかく前に進めない。1メートル近くの道路の段差なんてザラで、そのたびに迂回。迂回したら今度は道をふさぐように船がある」。

 その上、道中出合う犬や猫、ときには馬にエサや水をやる。浪江にたどり着くまでに果てしない時間を要した。福井を出るときに用意していた30件の里親枠はあっという間に埋まってしまった。

「動物しか暮らしていない、時の止まった町でした。予定通りにいくことなど何一つなかった。やせ細ってそれでも飼い主を待ち続けて警戒する犬や猫に『必ず飼い主さんを見つけてあげるからね』と言いながら、保護を続けました」

 それ以降、中山さんの「週末福島生活」が始まる。ゴールデンウィークに再び福島に入ったときには、保護や依頼含めて100件に達した。

「見てしまったんですよね。見なかったら、知らなかったら、こんなにも関わらなかったかもしれない。でも、あの光景を見てしまったら誰でも関わらなくてはいけないと思うはず」。

有刺鉄線の先にある“正しさ”

依頼件数が増えるがままに5月、6月と通い続け、6月末にはついに保護場所のスペースが尽き、自らでシェルターを設立することを決意。南相馬で見つけた土地で7月から動物を保護するためのシェルター「にゃんこはうす」の設立を開始した。8月にはにゃんこはうすが完成し、それ以降、毎週末、福井と福島の往復を繰り返しているというわけだ。

 仲間も増えた。中山さんのもとでレスキューにあたるのは、出身も年齢もバラバラの7人の女性たち。震災前までは、赤の他人だった女性たちが、個人ボランティアとして入った被災地で出会い、以後行動を共にしている。近ければ原発からの距離が5キロに満たない距離で活動するレスキューに女性だけで立ち向かう。「私たちにとって犬や猫は、人間の赤ちゃんと同じ。守らなきゃと思う気持ちなんですよね。“たかが犬猫”と言われますけど、“それ、赤ちゃんでも同じこと言いますか?”って思う。私たちにとっては同じ命。見捨てられた小さな赤ちゃんと同じ弱い者の命を助けたい、そういう気持ちなんだと思います」。必死で雨水を飲み、草を食み、何とか生き延びようとする同じ命を彼女たちは見過ごすことができないのだという。

 中山さんは、毎週金曜日に福島入りし、土日にレスキューを行う。活動開始は朝5時30分。南相馬のにゃんこはうすを出発し、国道6号線を南下し、20キロ圏内を目指す。警戒区域に立ち入る際には、今もなお警察の検問を通る必要がある。このバリケードを震災以降何十回と通ってきた。すでにその姿は堂に入っていて、みじんの迷いも感じられない。過去には見張りのいない有刺鉄線を切って入っていったこともあった。

「一般的な“正しさ”があるのはもちろんわかっています。でも、私は私が“信じること”をやりたい。もし見つかっても10万円払うか、数時間お説教をされる程度ですから」。

 自分の目的としていることをただやるだけ。その気持ちに一切の迷いはない。

 警戒区域に指定された町には当然人影はなく、文字通り「ゴーストタウン」と化している。ある家では、鳥かごの中で鳥が死んで白骨化している。道ばたには、動物の骨が至る所に散らばっている。道中すれ違う車といえば、原発の作業員を乗せたマイクロバスくらいだ。福島には、まだ“震災”が現在進行形で横たわっている。

 レスキュー専用の車は4台。70~80件ほどあるレスキューをエリアごとに分担し、メンバーで手分けしてこなしていく。依頼された家に捕獲のためのゲージをセッティングし、エサを置き、1軒につき5分程度の作業をスピーディに行う。前日に置いたエサが食べられているか、設置しておいたゲージに捕獲されている猫がいないかもチェック。そしてまた次の家へ。12時までには作業を終える。原発を挟んで北の南相馬から南の楢葉まで走り回り、拠点となるにゃんこはうすに戻る頃には走行距離が250キロを超えていることも少なくない。

 1年以上活動をすることで、ペットを飼っていた地元の人たちとの信頼関係も醸成された。中でも、警戒区域内にある“アジト”はその信頼関係の賜物だ。林の中の道なき道を進んだところにあるその“アジト”は、ある飼い主の“元”自宅だという。住むことが許されなくなってしまった警戒区域内にある自宅を「荷物置き場に使ってください」と提供されたのだという。津波や震災の影響をほとんど受けず、きれいに残された一軒家。2つある大きなガレージのシャッターを開けるとそこには大量の段ボールが積み重なっている。レスキューに欠かせないキャットフードが入った段ボールだ。レスキューに行く前に積めるだけのキャットフードをトランクに積んで行くが、途中どうしても足りなくなる。警戒区域外にあるにゃんこはうすに戻る時間を考えると、その“アジト”で「燃料補給」ができればそれだけロスが減る。「こんな林の中を抜けると家があるなんて、地元の人以外誰も分かんないよね」と中山さんはたくましく笑う。

幸せな結末ばかりではない

 保護した猫は飼い主がすぐにまた飼えるような状況であれば引き渡しを行うが、そうでないケースも多い。飼い主は見つかったが「今は引き取れない」と言われてしまった場合は、にゃんこはうすで一時預かりをする。基本は依頼があったペットを保護することが目的。ただし、想定外のペットを見つけた場合でも、保護することもある。そういった場合は、保護するかどうかを体型や様子を見極めて決める。痩せているなど極端な衰弱が見えた場合は保護するが、そのような衰弱状態であっても「保護したいけど、スペースの都合などで保護できないときが一番辛い」。飼い主が不明のペットを保護する場合は、特徴、連絡先を書いた張り紙を見つかった場所近辺に貼っておく。飼い主や周辺の住民が一時帰宅で戻ってきたときに、その張り紙を頼りに飼い主との再会を果たせるようにするためだ。

 そうして再会できた飼い主と猫は、すでに数十件にも上る。幸せな再会に立ち会える一方で、辛い場面も幾度となく見てきた。飼い主が見つかっても、避難先で面倒を見きれずに泣く泣く飼うことをあきらめる飼い主。福島県外の飼い主に譲渡する決断をし、「この子のため」と言いながら別れる飼い主と猫も少なくない。そのたびに、切なくてたまらなくなる。飼い主から連絡をもらったときにはすでに亡くなってしまっていたということもあった。「保護のことを知って会えると思って連絡してきた飼い主さんに、亡くなったことを知らせることほど辛いときはない」――。

 福島第二原発から1キロ圏内に住むKさんは、震災後中山さんにレスキューをお願いした一人。行政からはすぐに戻ってこられると聞いて避難したが、ようやく戻ってこられたのは震災から4カ月経過した7月。かろうじて連れて行った1匹だけがKさんの手元に残った。「とっても大切にしてきた猫が5匹いました。国や県からしたら、ペットなんて二の次でしょうが、中山さんたちは、なんの見返りもなく1年以上探してくれていて、感謝の言葉もありません」。7月に依頼を受けた中山さんは、すぐに2匹の保護に成功したが、そのうち1匹は1週間後に亡くなってしまった。中山さんは、震災から1年半経った今なお残り2匹の猫を保護するため、Kさんの家を巡回し、エサを置き続けている。今は置くたびに減るエサだけがKさんの気持ちをつないでいる。「中山さんに『エサがなくなるってことは、この辺りにまだいますから』と励まされて、それを信じて待ち続けている状態です」。

「“たかがペット”を救えない社会にしたくない」

 中山さんにも、Kさんと同じような思いをした記憶がある。小さな頃、大切に飼っていた猫が家から逃げ出してしまったことがあった。「見つかるまでとにかく生き延びていてほしい」、そう思いながらあらゆる場所にエサを置いて探し歩いた。ご飯を食べていないだろう猫のことを考えると、「自分だけご飯を食べるなんて考えられなかった」。1カ月近く探し歩いてようやく見つけた猫は、自宅から25キロも離れた山に捨てられていた。「自分が世話している最中に猫が逃げたのであれば、それは自分の責任。でも、福島は違う。あまりに理不尽な理由で大切なペットを手放すことを強いられている」。

 9月から、中山さんは福島に数カ月間住むことを決めた。「にゃんこはうす」で世話をしてくれていた女性が家庭の事情で地元に帰らなくてはいけなくなったためだ。姉妹で手伝ってくれていた2人がいなくなり、4人いたにゃんこはうすのお世話係が一気に半分に減る。やむなく当面福島で暮らすことを決断した。

「この活動には終わりがない。終わりが見えないのって辛いですよ。時々『私は何をやっているんだろう』と思うこともあります」。

 震災後1年半経った今も何かが変わったという実感を持てないまま、活動を続けている。「もっと多くの人にこの現実を見てほしい。見ないと忘れてしまうから」。

 中山さんは言う。

「たかがペットというけど、“たかがペット”の命さえ救えないような社会なんて寂しすぎる」。

 人間だって、ペットだって、同じように飢えて死ぬなんてない方がいいに決まっている――。その一心で、今日も中山さんは20キロ圏内に入っていく。

日経ウーマンオンライン 2012年10月2日

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